ここのところ忙しくて睡眠時間を削りながら仕事を続けていた。時間が出来ても仕事のことが気になって書斎に籠りがちになっていた。

三連休の中日、墓参りの帰りに家族と高尾山に行くことにした。気分転換が必要だ。

リフトに乗ってしまえば、高尾山頂までは登山ではなくハイキング気分だ。3歳の孫も健気に歩いた。
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山頂の天気は左程良くなかったが、家族と一緒に山頂に着いて気分が晴れた。
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山頂の広場には至る所に、お弁当を広げた家族連れがいた。それにしても高尾山の山頂はビジターセンターが出来たり、展望台やベンチ、柵が整備されてすっかり観光地だ。昔と全然違う。
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山頂からは丹沢山系や大山が見える。昨日は富士山は見えなかった。

さてさて山頂に向かう登山路は、1号路、2号・3号路、4号路、5号路、6号路と幾つもの選択肢があるのだけれど、リフトやケーブルカーに乗ってしまうと、山上駅で降りた後、そのまま1号路を進むか、2号・3号路を進む、或いは吊り橋のある4号路を進むことになる。
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小学校の遠足の時などは、2号・3号路や4号路を進むことが多く、観光路の1号路を辿ることは殆どなかった。だから薬王院の建築群は遠くに聳えているという感じだったし、偶に1号路を通っても薬王院が登山路の脇にあるね位の印象だったのだが、薬王院も観光化したのか1号路の枝道が薬王院の境内を突っ切っていて、この道を皆好んで歩いているようだ。006
                 (薬王院ホームページより転載)
1号路を進み有名なたこ杉を通り過ぎると、やがて浄心門を潜ると左手に神変堂がある。女坂もあるのだが、頑張って108段の階段で出来た男坂を上る。
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やがて山門に至る。

山門を通らなくても先に進めるし、山門を通ってもまっすぐ進んで山頂に行けるのだけれど、仁王門を潜って御本堂、御本社、奥之院と進んで行っても山頂へと向かえる。
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御本堂
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御本社(権現堂)
奥の院
奥之院

3歳の賢い孫から質問が出る。「ここはお寺なの、神社なの?」まあ、違いは分かっていないが、聞きかじった言葉の断片を組み合わせてぶつけて来る。

良い質問だ。しかも深い。御本堂と御本社があるし、両方注連縄がある。でも鳥居はどこにもない。高尾山薬王院は日本の神仏習合の代表格と言える。

一応公式には高尾山薬王院は寺院だ。正式名称は高尾山薬王院有喜寺と言う。天平16年(744年)に聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として行基により開山された。薬王院の名は創建時に薬師如来を本尊とした事に由来する。現在は真言宗智山派の大本山として知られている。

聖武天皇と言えば、奈良の大仏造立とともに全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じた天皇だ。薬王院有喜寺も相当な格式を持った寺院と言って良い。

だがこれは薬王院の表の顔だ。神仏習合の動きは創設の頃から着々と進んでいた。
聖武天皇の勅令により薬王院有喜寺を開基した行基(668年 - 749年)だが、これが只者ではない。大僧正(仏教最高位である大僧正の位は行基が日本初)として聖武天皇により奈良の大仏造立の責任者として招聘され、この造立の功績により東大寺の四聖の一人に数えられたが、本来は官の人でなく野の人だ。

仏教は公伝では538年に国家鎮護の宗教として百済から倭にもたらされた。しかし仏教はおそらく民間ベースでは、帰化人により一般民衆の苦悩を救う宗教として既に伝来していただろう。30歳程年上だが、行基の同時代人に役小角(役行者 634年 - 706年)がいる。16歳の時に山背国に志明院を創建。翌年元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後葛城山で山岳修行を行い熊野や大峯の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し修験道の基礎を築いた。行基は国家鎮護の仏教ではなく、帰化人から受け継がれた仏教、役小角の密教を踏まえ民衆の中に入り民衆の苦悩を救おうとした僧侶だ。間違いなく行基と役小角は交流があったと思われる。

朝廷が寺院や僧侶僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、行基は山林修行から里に下り禁を破って行基集団を形成し、畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業・土木事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。当初朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得て、その力を結集して逆境を跳ね返した。
行基集団は、自前で鍼灸、外科、按摩術等、更には本草薬草を一般大衆に施していた。そんな行基集団を朝廷は賞賛せず法外の徒として弾圧を行ったが、聖武天皇は大仏造立に当たり、行基集団の力が必要と行基に大仏造立を命じた。

薬王院は建立当時から山岳信仰等、神道的要素を併せ持っていたと想像出来る。

ところで、登山路を少し戻ると浄心門(鳥居の形に近い)の脇に神変堂がある。ここに祀られている神変大菩薩は、修験道の開祖である前述した役小角のことだ。20代の頃に藤原鎌足の病気を治したと言う伝説があるなど呪術に優れ、神仏調和を唱えた。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったとも言う。文武天皇3年(699年)に人々を言葉で惑わしていると讒言されて伊豆島に流罪なったが、1100年後の

寛政11年(1799年)に、聖護院宮盈仁法親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した光格天皇が神変大菩薩の諡を賜った。

行基が薬師如来を本尊として薬王院を創建してから600年以上が経った永和年間(1375年-79年)に、俊源大徳の祈請によって飯縄大権現を勧請し、以後薬王院は飯縄大権現を本尊とし高尾山の鎮守とした。飯縄大権現とは信濃国の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神だ。不動明王の化身とされ、その姿は天狗だ。高尾信仰が本格化したのはこれ以降と言われる。薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護された。
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飯縄大権現像は当初は奥之院に安置された。(俊源大徳が高尾山に入山し10万枚の護摩修行をした時、修行の疲れから思わず寝入った時、夢の中に異様な姿をした阿修羅明王が現れ、自分の姿を彫刻し広く衆生を救えとの声があった。目が醒めた俊源は、夢で見た明王の姿を具象化しようと念願したがなかなか思うように果たせない。そんな時一人の異奇な人がやって来て、自分が彫刻をして上げようと言い人里離れた西の谷の奥へ篭った。やがて像は完成し再び現れ俊源に像を手渡し消えた。あまりに威霊赫赫として正視に耐えぬ出来映えだったので、山頂の一角に祠を建て安置した。)

自分の眼で確認していないので間違っているかも知れないが、現在は御本堂に釈迦如来、御本社に飯縄大権現像、奥之院に不動三尊像や行基、中興の祖俊源の坐像が安置されている。